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熊野古道から 2017冬 13日目 すばらしき哉、伊勢路

2017/2/13 月
始:7:10 ~ 終:15:50 晴れ 朝0℃
0530起/0710発(大吹峠手前棚田跡) ~ 0730(大吹峠) ~ 0745(波田須登り口) ~ (波田須) ~ 0845(波田須の道終点) ~ (新鹿) ~ 1020(逢神坂峠) ~ 1100(二木島峠) ~ 1120(国道合流) ~ 1140(二木島駅) ~ 1200(二木島登り口) ~ 1325(甫母峠) ~ 1430(賀田登り口) ~ (賀田駅下トイレ) ~ 1550(羽後峠)

昨晩はなぜだか鼻づまりと喉が痛くて息苦しく、ほとんど眠れず。夜中に二度もトイレに起きてしまった。
テン場は鹿の影が非常に濃いところだった。

そして迎えた無風快晴の朝。
冬型がさらに緩み、風はまだ冷たいものの、風がなければ海沿いの低いところは上着が不要なくらいの暖かさだった。

7:10にテン場を発ち、20分ほど登ると大吹峠。
峠付近には孟宗竹が植えられているが、しっかり管理されていて明るい竹林となっている。
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説明板によると、大吹峠には昭和二十五年頃まで大吹茶屋があったとのことである。
茶屋近くには殺菌作用があるバラン、ハナミョウガ、竹が植えられ、おにぎりや寿司をこのような葉で包んでいたとのこと。今に残る竹林はその名残りだ。

峠付近には猪垣も残っているが、ここの猪垣は江戸時代中期頃に築垣されたものらしい。
延々と約10kmも続き、さながら万里の長城を思わせると説明板にあるのは言い過ぎにしても、石垣を築いた先人の苦労、というか終わりなき猪との戦いを続けてきた先人の苦労が偲ばれる。

峠の波田須側は登り口までテン場がないが、登り口にはトイレのある駐車場があって幕営可能。
いったんR311に出て波田須へ。

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(左)波田須の道入口付近から熊野灘を望む
(右)鎌倉期の石段が残る波田須の道

波田須の道を抜けると、山の斜面に波田須の集落が広がっている。
そこは桃源郷のように見えた。
山で隔絶された地にありながら日当たりがよく、明るくて、山村に漂う悲壮感というものが感じられない。
ま、山村というほど山深くはないし、周りの山が低いということが大きいのだけれど・・・。

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明るい波田須の集落。なんだか懐かしいような、とても感じのよいところです。

今から約二千二百年前、秦の始皇帝の命により不老不死の仙薬を求めて大船団を組み東方に向った徐福が、途中で台風に遭って流れ着いたのが熊野の波田須、矢賀の磯。
帰国を断念した徐福は永住を決意し、焼物・土木・農耕・捕鯨・医薬など大陸の文明を里人に教えたといわれている(その頃の日本は縄文時代から弥生時代への転換期のあたり)。
今も波田須に残る窯所、窯屋敷の地名はその名残りだといわれており、陶器の破片も多く出土している。また、秦の時代の半両銭も見つかっているとのことである。
かつて波田須は秦住と書かれた。

「楠の巨木が茂る蓬来山とよばれる徐福の宮には徐福の墓がたてられており、ご神宝の摺鉢も里人により大切に守られている」とも説明板にあり、大いに興味をそそられたのだが、ルートから大きく外れていたため寄るのは諦めた。

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波田須の集落を抜けてすぐ、新鹿へ向う途中の小さな峠にあった西行松。その説明板。
かつてはこの場所に茶屋があったらしい。写真のように茶屋の軒先に松の巨木があり(紀伊国名所図会より)、松の下で西行が一服して世の中の無情を説いたといういわれがあるが、残念ながら明治時代に枯れてしまって今はない。

西行松(跡)を過ぎて再びR311に合流、しばらく歩いて新鹿への古道に入る。
新鹿は白砂の海岸が美しいところで、海水浴場がある。
海水浴場はきれいに整備されていてトイレもある。シーズン中はけっこう賑わう場所であるように見えた。
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新鹿の集落に一軒だけあったGSでガソリンを買うことができた。
ここのGSにはトレーナーを着たブルドッグがいて、ブルのくせに臆病なこいつがとても可愛かった。
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犬好きの自分は比較的犬に好かれるけど、ここまで足下にへばりついて離れないのは、もしかして同じ臭いがしますか???

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新鹿の集落を抜けたら細い橋を渡って古道に入り、逢神坂(おおかみざか)峠(290m)、二木島峠(240m)と小さな峠を二つ越える。

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途中にはやはり猪垣や石垣が多く残っている。

正直に言って、来てみるまで伊勢路には何の期待もしていなかった。伊勢神宮までの歩きはただのおまけだと思っていた。
が、来てみてビックリ。実にすばらしいではないか、伊勢路!
予想以上に古道が要所要所に残っていてメリハリがある。案内標示もしっかりしているし、丁寧に記された説明板を読んでいるだけでおもしろい。

熊野へ至る道にはかねてより「紀伊路」と「伊勢路」の二大ルートがあり、ともに平安時代の後期(十二世紀)には既に開かれていた。
伊勢路は熊野詣や西国三十三所など庶民の信仰の道として発達、江戸時代になると紀州徳川家によって熊野街道の整備が大いに進められた。
熊野古道の代名詞ともいえる石段や石畳の道、それらが今日まで見事に残っているのは紀州徳川家による道の維持整備によるところが小さくない。
伊勢路は伊勢から熊野三山へ向うときは熊野道とか巡礼道と呼ばれ、逆に熊野から伊勢に向うときは伊勢道と呼ばれた。
伊勢参宮を終えて西国三十三所の一番札所青岸渡寺へ向う巡礼者が、最盛期には年間数万人通行したといわれる。

キリシタン灯籠や巡礼墓標の脇を通って二木島へ下り、二木島駅のトイレ脇の東屋で休憩。
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(左)二木島の集落と、(右)二木島駅前のトイレと東屋

二木島から再び登りとなる。甫母(ほぼ)峠(305m)越えの道で、曽根次郎太郎坂と呼ばれる。
甫母峠は大化二年(646年)から天正十年(1582年)までの長きにわたり志摩国と紀伊国の国境であった峠であり、曽根次郎太郎坂の次郎は「自領」、太郎は「他領」が訛ったものであるらしい。紀州領になってからも地名の通称として残り、現在は尾鷲市と熊野市の市境になっている。

橋を渡って登りに取り付く手前、人家の前を通ると、おっちゃんが家の前で立派なタコを解体していた。
今しがた橋の下で捕まえたという。おっちゃんが満面の笑みで教えてくれた。とても旨そうなタコだった。

二木島からの登りは長く感じた。特に出だしが急登である。
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やはり石垣や猪垣が多く残っている。はっきりいって、ここまでくるとへたな山城よりすごい。

特にここの猪垣は見事で、高さが2~3mほどもある。
珍しい猪垣記念碑なるものも残っていて、それによると寛保元年(1741年)三月上旬から翌年二月までの一年がかりで築かれたとある。
戦時中の昭和二十年前後には猪垣の下まで開墾され芋や麦が作られたといい、その後昭和三十年代後半になってみかん栽培が全盛期を迎えたが、高度成長期に入って廃れ、今ではほとんど自然にかえってしまった。

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猪垣記念碑

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尾根上の道を行くと木々の間から楯ヶ崎を望むことができ(左)、さらにしばらく登ると甫母峠(右)。

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甫母峠には高床式のすばらしい東屋があり、イスやテーブルの類がないので屋根の下にテントを張れるが、残念ながら付近で水が取れない。

峠からの下りの途中に石切り場跡があった。
説明板によると、江戸城の石垣修復に四十個の石を供出したらしい。
山全体に巨石がゴロゴロしており、ここにも見事な猪垣がある。
石垣や猪垣がこんなにあるのは付近にそのための石がいくらでもあったから、ということも大きそう。

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見事な猪垣

道の途上には「行き倒れ巡礼供養碑」というものも多数ある。
巡礼中に行き倒れになった人を供養するためのもので、これはやはり四国遍路の途上でもよく見かけた。
時代は違えど行き倒れになる人がそんなにもいたのか、そこまで厳しい道ではなかろう、お遍路のときからずっとそんなふうに不思議に思っていたのだが、それはこういうことだった。
以下、説明板による。

「西国三十三所巡礼の旅に出る人は心に悩みのある人や身体に病を持つ人が多かった。
旅人は一生の念願である伊勢参宮を無事終えると、田丸で巡礼姿に改め伊勢路を南下、曽根浦を通行して一番札所の那智山青岸渡寺を目指した。
難所の曽根次郎太郎坂で急に容態が悪くなる巡礼もいた。村人たちは医者にも診せて看病し、不幸にして死亡すれば、国許へ訃報を出し、地元の負担で手厚く仮葬して初七日の供養も怠らなかった。」

これは四国遍路でも同じだったと思う。
身体に病を持つ人と聞いて納得。以後は行き倒れ巡礼供養碑を見かけると合掌するようになった。

賀田へと下りる。
賀田は大泊以降の集落と比べると大きな集落である。

賀田駅の下にある公衆トイレで水を汲む。
トイレの周辺は広場のような公園のような感じになっていて、幕営可能であるようにも見えたが、やはり人の住むところでは落ち着かない。
集落を抜ければ羽後峠(140m)への登りに入るので、思いとどまってもう少し先へ行くことにした。。

峠への登りに入ると、やはり棚田だか段々畑の跡と思われる平坦地がいくつもあったが、ここでは檜がビッシリ植えられていて取り付く島なし。
途中に猪垣が延々と続く。ここの猪垣はまさに万里の長城のようだった。人にとってはちょっと低すぎるが、猪にしてみれば万里の長城のようだろう。
今もしっかり機能しているに違いない見事な猪垣だ。
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果たして幕営できる場所があるのか、なんとなく怪しい様子になってきて期待せず羽後峠に着いたのであるが、そこはすばらしいテン場だった。
こんな開けたスペースがあろうとは思ってもみなかったので、小躍りして幕営。
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Author:nakappie
1970年生まれ。妻と二人信州伊那谷在住。
2009年10月~2013年5月の旅を記録するために”なかっぴー通信”をスタートさせました。
現在は伊那谷にて節約生活をしながら充電中。
2014年4月、ブログのタイトルを”なかっぴー通信NEO”に改めました。
信州伊那谷より~旅のこと、山のこと、自転車のこと、そして田舎暮らしのことなどなど・・・気ままに綴ってゆきます。
”おもしろきこともなき世をおもしろく”そんなふうに生きていけたらいいですね。

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